無意識のうちに洗脳されていませんか?
被抑圧者の教育学/パウロ・フレイレ
過激なタイトルを入れてしまいましたが要は、教育について問題提起をした本です。
おそらく、フレイレさんが本を書く前から、銀行型(いわゆる、知識詰め込み型)教育は良くないのではないか?と思っている人は多かったと思います。
また、同時に、教育を受ける権利が剥奪されていること、それに気が付かない状況があることに対しても問題だと思っている人も多かったと思います。
2つの問題を世に知らしめたものとして、この本は大変貴重なものです。
この本が言いたいことは
教育を受ける権利を奪われていることに気が付かず、またそこから救うこともせず、ベルトコンベアのように流れる人生を歩むことでいいのか?
ということだと私は思っています。
その上で、知識詰め込み型では、真にその人生から逃れることは結局できない。
そのため、問題解決型学習が良いのでは、という提案をしています。
問題解決型学習は、自分と世界がつながっていることを意識するきっかけになると著者は考えています。
思考は、現実によって媒介され相互のコミュニケーションから生まれるものである。
知識の容れ物としての人間ではなく、世界とのかかわりのうちに問題の解決を模索するようなものであるべきだ。(p.99)
とあるように、思考することをとても大事に考えています。
そして、「対話」を大事にしていくことが、この問題解決型学習につながるとも著者は考えています。
対話には、二つの側面があると述べています。
行動と省察
です。
この二つは連携の関係にあり、どちらか一方だけを持っていても意味がないと考えています。
ここからは個人の意見。
個人的に「対話」するためには、相手を敬うことが大切であると思っています。
今回紹介の本にも、自分がなんでも知っている。知識を持っている前提で話をして本当に良いのか?と問いかける部分があります。
いわゆる上から目線では、対話にならないということですね。
上から目線で話しかけてくる人、明らかに格上の雰囲気を出して威圧する人、そういう人たちとは話す気にならないですよね。
腰が低い=相手を敬う気持ちのある人には、どんなに偉い人でも話しかけやすいような印象を持ちます。
もちろん、だからといってこちらが勝手に話しかけていいかというとそれも違いますね。
お互いのリスペクトがないと、「対話」は生まれないと思います。
相手がどんな人であろうと、リスペクトし、どんな話をしてくれるのかな?どんな話が生まれるかな?と関心を示すことが最低必要なことではないだろうか?
教育と謳っているが、これは哲学的な思想がないとできないと思っている。
哲学的対話が今流行っているように思うが、その元はこの本ではないだろうか、と思うほどの良本です。
ぜひ手に取ってみてください。
紙の本が私は個人的に大好きなんですが、毎回持つにはさすがに重い、、、ということで、Kindleで電子書籍を読むことも多いです!
気になった本は、まずKindleで購入もしくは試し読みをして、手元に残したい本は改めて購入する、といった方法でいつでも読みたい本は残しつつ、気軽に読める本は、Kindleで読むといった、両刀使いで効率よく読めていると思っています。